★再びピギーバック配列について
●石の宝殿と益田岩船が縄文時代に設置された決定的証明
その後、牛石遺跡とギリシャの遺跡から発展した三重点の考え方は、山岳がなくても成立する場合が多いことがわかりました。こんなことを書くと新しい発見のように見えますが、見方を変えれば、干字状パターンの中心線になる古富士線と横棒が交差する2点もそれに相当することになります。とても不思議で自分ながらまさか-と思うような干字状パータンの存在をHSCPを発見した比較的に早い時期に発見していたので、いつまでもその原型にこだわっていました。不覚にも、それよりも単純な多重点の存在を考えることがありませんでした。
牛石遺跡の例で、どうも考古学の専門家は少し早とちりしているのではないかと疑問を持ちながら、ギリシャを旅して、ようやく多重点の考え方に達したのです。こんな、簡単な考え方がこれまでできなかったことを、今になって悔やんでいます。もし、研究の初期にこれに気づいていれば、この研究の進捗は数倍先に進んでいたに違いありません。
また、前置きが長くなってしまいましたが、ピギーバック配列について再度説明いたします。ピギーバック配列などわけのわからない言葉を使って大勢を煙に巻いていると皮肉を浴びたこともありますが、この発見時はとても興奮しました。古代人もやはり三角測量を使っていたのだと・・・・・、ところがその考えはどうも確かではないようだとする悩みも増えている此の頃です。とりあえずそれはさておき、皮肉を言われたこともるピギーバック配列について再度説明します。
注;ピギーバックは英語では「親亀の上に子亀かが乗り、更にまたその上に子亀が乗る状態を指します。まだその上に何個も亀が乗れる意味もあります、ロケットではこのイメージです」。私はかつてエレクトロニクスのエンジニアでした。(HPIBやGPIBと呼ばれる計測器用バスに使われるピギーバック方式のコネクターは一つのコネクターの上に16層も重ねて使用できるとても便利なもので、ここでは「ピギーバック」は当たり前のように使われていた言葉です。)
ここではふたたび、古代人が正確に方位を知ることができたと主張を続けてこられた小林達雄國學院大學名誉教授とゆかりのある長者ヶ平遺跡を例にして説明をいたします。ここでは典型的なピギーバック配列を図H40で見ることができます。
これまで全く謎であり、学者も確かな見解もなく、国土地理院の地図にも記載されていなかった石の宝殿に関して、★石の宝殿、益田岩船とウッドサークル・ストーンサークルとの驚く関係に書いてきました。ここに書かれた内容は松本清朝も全く歯が立たなかった謎に対して、科学的な確かな証拠をはじめてあげたと自負しています。
しかし、石の宝殿を長者ヶ平遺跡のような縄文遺跡と同列に扱うことは、これまで誰も想像したこともなかった事柄でもあり、その反論を期待していました。しかし、反論は全くありませんでした。考えて見れば当たり前のことですね。考古学者のほとんどは興味を持とうともしないどころか、やはり他人事と考えているのでしょう。そこには、そんなことはあり得ない、「そんな能力は古代人が持っているわけはない」とした固定観念のもとで研究を続けてきたので、死ぬまでその考えを変えることができないとした悲しい性があるのでしょう。
そんな人達を相手にしいたら、この研究はとても進むどころか、マイナスしかないのを承知でここで書きます。考古学者だけではありません。先日お会いした国立天文台の方も、古代人が東西・南北を正確に知る事ができることは当たり前であるが、任意の方位を正確に知ることなどできるわけはないと断定しています。それは専門家でなくても良く知られていることです。それにもかかわらず、古代の遺跡や神社の位置がGPSを持っているような高い精度で配置されている事実はそれと矛盾しているのです。この矛盾があるこそ、ライフワークとしてこの研究を選んでいるのです。それを確かめもせず、素人でもわかる理屈だけで、その先に進もうとしないはどうしたことでしょうか-
もう一つ、具体的な例を上げます、近畿には巨大な古墳がたくさんあります。一般的には、古墳は「豪族」の首長の意思で造られたとされています。ところが「豪族」とは何かほとんどわかっていないのです。もちろん、リンクにある「豪族」とした曖昧なイメージは良く知られていますが、そのような程度の「豪族」が現代でも造営が困難と考えられるような巨大古墳をたくさん残している事実を説明できる人は現在もいないのです。
歴史学者だけでなく建築などの専門家の考える規模をはるかに越えている巨大古墳は誰がどのような組織で造営したかはまだわかっていません。それを「豪族」の一言で代弁しているに過ぎないのです。本音はそんなに大規模な構造物ができるわけはないと考えているのでしょう、それにもかかわらず、現実にそれが現在も実在しているから、それを認めざるを得ないのです。特に、九州王朝説を取る人達は近畿にある古墳の規模の合理的な説明を全くできていないのが現状です。たとえ、箸墓古墳が卑弥呼の没年と合致しない年度に造営されたとしても、その巨大な規模の古墳を造営する能力が短期間で得られたことを通史で合理的に説明することは全くできていないのです。
ふたたび、前置きになってしまいました。ここで「王朝がどこにあったか」を論じることが目的ではありません。古墳のようにそのような大規模な構造物ができるわけがないと現代の常識で考えていても、そこには現実にあるから認めざるを得ないものはまだたくさんあります。神社や遺跡も似たようなものです。誰が、何時、何の目的で、どのような組織で作ったかを考えるとわからないことだらけです。ただそれを理由に、古代人がとてもできるわけはないと決めつけ、興味も示そうとしない人達が多いことを憂いているのです。少しでもそのような人達が減ることを願って再度簡単な説明から入ります。
まず、ここでは更に新しい事実を入れて、ピギーバック配列を説明します。図H40は長者ヶ平遺跡、環状木柱列と古富士、謎であった石の宝殿の幾何学的関係を示したものです。
図40の青線①-②-③をつないだ線の②古富士ポイントに於ける補正内角は90.22と極めて直角に近い角度になっています。この線の特性から見ると、石の宝殿と古富士、縄文時代の遺跡である長者ヶ平遺跡は互いに特異な幾何学関係にあるから、石の宝殿は縄文時代に造られたものであると推定することができます。
はたしてこの説はどのくらい信用できるでしょうか-。実は、ランダムに分布した点の三点を結んだとき、三点の線が0.2度の精度で直角になる大雑把な確率は1/500程度です。ランダムに三点を引くと500回に一回、偶然に0.2度程度の誤差内に入る直角線が引けることを意味しています。ここには神社はなく、縄文時代の数少い遺跡だけです、この範囲で対象とした遺跡は数十個所です。この中で90.22度の直角が引けることは、偶然である可能性がかなり低い程度の信頼性でしょう。
図40の桃色の線、線分①-②に対しては⑤の桜町遺跡、線分②-③に対しては④真脇遺跡の頂点を持つ三角形を頂点に持つ三角形になります。このように任意の線分に対して、それを底辺とするような直角三角形ができる配列をピギーバック配列と呼びます。
このような、配列は単なる①-②-③のような直角線ができる確率よりも桁違いに低くなり、これは絶対に偶然ではないと言い切れるほどの信頼性を持ちます。ここから見ても古墳時代と考えられていた石の宝殿が縄文時代に位置が決まっていたことを確率で証明することができたことになります。
④真脇遺跡、⑤桜町遺跡は日本で三例しかない半截された栗材を利用した環状木柱列 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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図H52 ①石の宝殿-②古富士ポイント-③長者ヶ平遺跡に対するピギーバック配列 |
次は、益田岩船が石の宝殿と同時に置かれた証拠も説明し、そこから多重点の効用と実例を説明して行きます。
2015.6.17記
線分⑥-⑦に対するピギーバック配列に相当する遺跡は今のところ見つかっていない(点線上にある-) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
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図H53 ⑥益田岩船-⑦硯塚遺跡-③長者ヶ平遺跡に対するピギーバック配列 |
図H53は⑥から⑦硯塚遺跡を経由して④真脇遺跡に89.30°の高い直角精度を持つ補正内角で到達することを示しています。ランダムに線を引いた場合、偶然にこのような精度の直角線が引ける大雑把な確率は300回に一回)です。さらに、線分④-⑦に対して⑨中大塚縄文時代敷石遺構と⑧土呂遺跡の二つの頂点を持つピギーバック配列が成立(この大雑把な確率は3,000回に一回)しているので、偶然にこのような配列が同時に起きる可能性はさらに桁違いに低くなります。したがって、このような配列が偶然ではなく計画的に配列されていることがわかります。ここで、⑥益田岩船-⑦硯塚遺跡の線分に対しては今のところ該当する遺跡が見つかっていませんが、図に示した点線上付近に配石遺構を持つ遺跡が発見される可能性を示しています。(点線は円で示してありますが、実際は地図の原理的な歪みがあり、正確な円にはなりません)
⑧登呂遺跡は弥生時代の遺跡となっていますが、恐らくこの遺跡は複合遺跡で、縄文遺跡の上に弥生遺跡が造られたものと考えています。
線分①-⑩に対するヒギーバック配列に相当する遺跡は今のところ見つかっていない | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
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K54①石の宝殿-⑩チカモリ遺跡-⑪小室敷石住居跡 |
図H54は①石の宝殿から⑩チカモリ遺跡を経由して90.48°と高い精度の直角を持つ補正内角で⑪の上白岩遺跡に到達しています。ランダムに線を引いた場合、このような精度で偶然にこのような精度の直角線が引ける大雑把な確率は0.5(200回に一回)です。さらに、線分⑩-⑪に対して⑫小室敷石住居跡を頂点とするピギーバック配列が成立しているので、偶然にこのような配列が同時に起きる可能性はさらに桁違いに低くなります。したがって、このような配列が偶然ではなく計画的に配列されていることがわかります。ここで、①石の宝殿-⑩チカモリ遺跡の線分に対しては今のところ該当する遺跡が見つかっていませんが、①石の宝殿と⑩チカモリ遺跡を望んだ角度が直角になる位置の上に配石遺構を持つ遺跡が発見される可能性を示しています。
(その条件を持つ点の軌跡は①-⑩を直径とする円の円弧付近にありますが、地図の原理的な歪みがあり、正確な円にはなりません)。もし、図H53の点線と同じ部分にヒギーバックの頂点があるとすると、岐阜県多治見市北小木町にある多治見GCの南西端付近にその遺跡が見つかることになりますが、この点が図H42と図H43と共用になっているとした証拠は今のところありません。
図H52、図H53、図H54をあわせると、日本で三例しかない栗の木を半截した特異な環状木柱列のすべてを網羅することになります。ここで注意することは、三つの図ではすべてのポイントが遺跡の場合を示していて、まだ神社との関係を書いていません。もちろん、これらの遺跡と神社は密接に関係しています。次に神社との関係を書いて行きますが、図H41、図H42、図H43の遺跡配列が計画的にされていることの証明としては十分過ぎるほどの条件を備えていますが、さらに神社の関係を加えることで、縄文遺跡と神社の関係が益々密接で切り離せないことがわかってきます。また、ここでは三重点だけでなく、四重点も出てきます。
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図H55 線分④-⑧に対するピギーバック配列⑬西秋留石器時代住居跡 |
先の図H53で登呂遺跡が縄文遺跡の上にできたのではないかと書きましたが、この配列が600回に一度ほどの確率で偶然にできた可能性を持ちます。この直角だけではそのように偶然であるとした心配があります。しかし、図H41に示すように線分④-⑧には⑬西秋留石器時代住居跡がピギーバックとして配列しています。このような特異な事象が起きる確率はさらに桁違いに小さくなり、偶然にして起きることは絶対にないと言ってよいでしょう。言い換えれば、⑧登呂遺跡の位置はすで知られている縄文時代の遺跡である環状木柱列などと同時期にその位置が決められたことは間違いないと考えられます。また、図H41、図H42、図H43にあるピギーバック配列の頂点になる遺跡には必ず扁平な敷石が敷かれていて、更に一個の炉と言われている穴があります。これは一般に言われているような住居跡ではなく、位置や方位を表すか、それに関連した祭祀を行う施設の跡であることが益々明確になってきました。
2015.6.20記
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⑮平林真子遺跡が場違いの場所にあると考えている学者もいる。しかし、ピギーバック配列で簡単に説明できる
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図H56 線分.⑭-⑬に対するピギーバック配列は敷石住居跡と呼ばれている⑮平林真子遺跡にある |
図55の青色線は石の宝殿-天王山遺跡-長者ヶ平遺跡の直角線を表しています。この補正内角は89.31°でこのような事象が偶然に起きる大雑把な確率は140回に一回程度です。しかし、線分③-⑭には⑮平林真子遺跡があり、89.95゚の素晴らしい直角精度で桃色線で示したピギーバック配列があります。この桃色線で示した配列が起きる大雑把な確率は2,000回に一回です。ここで、両者が同時に起きる確率は桁違いに低く、やはりここでもこの遺跡の配列が計画的に成されていると考えざるを得ません。
清水天王山遺跡は平地式住居跡と書かれています。しかし、 この遺跡が一般的な竪穴住居のような竪穴ではなく平地にあることから、住居跡ではなく、これまで主張してきたように位置や方向を示す施設、またはそれに関連した祭祀場の跡である可能性が大きいと考えています。⑮の平林真子遺跡にも、これまでと同じ扁平な敷石と一つの穴を持つ敷石住居跡があります。やはり、この遺跡もこれまで言われていたような、住居跡ではないでしょう。このタイプの遺跡としては、平林真子遺跡が場違いの場所にあると考えている専門家も多く、なぜこんな場所にあるかこれまで謎となっていました。しかし、この場所は線分③-⑭に対するピギーバック配列とすると納得できるでしょう。
残念ながら、線分①-⑭に対するピギーバック配列は今のところ見つかっていません。ここでも、①と⑭を望んだ角度が直角になる位置に、未発見の扁平敷石と一つの穴を持つ遺跡があるに違いありません。先にも書いたように、この候補に上がる場所の軌跡は①-⑫の線分を直径とする円弧上に近い位置にあることになります。(地図の原理的な歪で完全な円にはなりません)
2015.6.21 記
★古富士の位置を示す多重点
ここでも主題から離れてしまったような説明が長くなってしまいました。この理由は未だにHSCPを信じることはできないとした人達が大勢いることを知っているからです。このような人達に三重点の説明をしようにも聞く耳を持たない人が多いのです。特に神社の説明をすると、「日本は神社の数が多いからどんな規則で線を引いても、何かの神社に行き当たるのは当たり前だ」としたいい加減な観念をもとにして、頭から神社の配列に規則などあるわけはないと決めつけているのです。
そこで、図H40から図H44までの説明には、一切神社を出さずに縄文遺跡だけでもHSCPが成立することを説明しました。しかし、ここでも再び遺跡の数はやはり多いと言う人もいる可能性があります。しかし、先にも説明したように、ここで取り上げた遺跡は半截された木柱列を持ち、全国で三例しかない遺跡、二例しかない巨大石造物、扁平な敷石と一つの穴を持つ特異な遺跡でやはり数えるほどしかないものを対象としましたから、その言い分は通りません。
それでも、文献学しか信用できない学者は違和感を持つに違いありません。ここで言っても無駄か知れませんが、神社や縄文遺跡の配列は古代人が直接日本地図の上に書いた文字であると考えて見てください。それは、理解するまでは大変な手間がかかりましたが、わかってくればくるほど考えられないほど正確であることがわかってきます。これはいくら読んでもわからないことばかりの記紀とは大きく異なっています。その配列は文献学では決して得られない貴重な情報を与えてくれるものと確信しています。
また、神社の配列に規則性があることはわかったと理解してくれた人達の中にも「縄文遺跡」と「神社」の時代を同格に置くなどとんでもない、やはりどこか間違っているのではないかと疑いを持つ人が多いのです。小林達國學園雄名誉教授から送られて来た参考文献「縄文世界から神社まで」にも「神社は言うまでもなく縄文時代にはなかった」とはっきりと書かれています。私が何を言っても信じられないと言う人が多いのは当然です。
そこで、まず縄文遺跡の位置だけでも規則性があることを説明し、その次に神社の位置との関連を説明しようと考えました。そこにはこれまで説明してきた多重点の考え方が重要になってきます。さらにそこから考えられる多重点を結んだ線が、太陽の動きと一致してくればより理解が深まるものと考えています。
さて、ここで再び図H40に戻ります。謎の巨大石造物とされた石の宝殿と3,000年前のピークとされる古富士ポイントの位置、縄文遺跡である長者ヶ平遺跡(このリンク先には墓であることを示唆しているとある)が計画的に配置されていると書きました。しかし、常識的に考えても、とても同格にすることができないものが規則性を持って配置されていると言われても戸惑う人が多いでしょう。
図H52では、①-②-③が90.22°の直角精度で起きる大雑把な確率は500回に一回ほどです。同じように二つのピギーバックの直角精度が偶然に起きる単独の確率は桜町遺跡では300回に一回、④真脇遺跡では700回に一回程度になります。これが同時に起きる確率となると、とんでもなく確立が下がり、やはりこれは計画的に配置されていると断定できるのです。これは想像でも希望的なことでもありません。はっきりと学問を持って断定できるのです。しかし、学問的に断定されてもやはり偶然と言うのはあるものだと大勢が考えてしまうのはわからないでもありません。
そこで、今度はここに神社の配置が登場してきます。先に、山岳-神社群中心-神社群中心とした配列が多数存在するとその概要をすでに書いています。これまで、古富士ポイントは3000年前の富士山のピークであると説明してきました。これは、全国の神社群が指す干字状パターンが現在の富士山頂上ではなく、少しずれた場所を指していることで悩んでいるときに、静岡大学教育学部小山真人教授の富士山は約3,000年前に大噴火して現在の姿になったとした説に飛びつき、それ以来古富士ポイントとして説明してきました。もちろん、その当時は本当に古代のピークである証拠はどこにもありませんでした。日本中を見ると山岳のピークではない、外れた位置に神社があることも多いので自分自身も-の気持ちがあました。ただ先生の予想された古代のピークの位置からそんなにずれていなかったのは確かです。(実際に先生がこの方法でそのピークを求めたがどうかは確かではありませんが、山の周辺に落ちている噴石の軌跡を映画を逆回転させたようにコンピュータでシミュレーションをして、元の位置を求める方法があるようです。先生の説では古代は二子山でピークが二つあったそうです)。
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図 K57 古富士ポイントの位置 (図の十字の中心) |
先生のご意見を伺ってから、まさか-と思って縄文遺跡と神社の関係を試したら、何と縄文遺跡の多くが神社群中心の位置にあることに驚くと共にHSCPの理論が確かであることに自信を得て、益々研究に没頭するようになった経緯があります。先生が、現在どのように考えておられるかどうかはわかりませんが、「神社間に線を引いて何がわかるか-」と大勢から非難される中で、小山先生のご意見と、「古代人が遠方の方向を知ることができた」と主張してこられた小林達國學園雄名誉教授のご意見はこの研究の大きな励みとなっていたのです。
このような経緯もあり、三重点の考えを古富士ポイントで評価したらどうなるか-、それは自身が最も興味のある問題でした。そこからは思わぬ発見が数多くありました。
2015.6.22記
★石宝殿が古富士ポイントを参照している決定的証証拠(1)
まず、図H52では石の宝殿から古富士を意識していることになります。図K52にある①-②-③の直角線が偶然では決して起きない特異な事象であることを確率から見てわかっていただいたと思います。しかし、これを素直に受け取れない人もたくさんいるに違いありません。これまで全く謎で、誰も歯が立たないほど謎であった石の宝殿が3000年前の富士山を意識して配置されていたなどと突飛ことを言われても、まさか?と思う気持ちが先に出てしまうに違いありません。とくに文系の人は確率など信じられないし、「決して当たらないような確率の宝くじに当選者はいつもいるではないか」などわかったようなわからないよな理屈をつけて信じようとしないのです。
そこで、小学生でもわかる方法をこれから説明します。以下( )内の数値は10進の緯度と経度を”,”で区切り、それをつないたものです。電子国土、地理院地図、Google地図などの入力枠に直接コピー&ペーストができます。
1.①石宝殿(34.782586,134.795030)から古富士ボイント間(35.350233,138.740377)に正確な線を引きます。
2.引いた線の上に乗っている神社がないかを古富士ボイントから石宝殿に向かって見て行きます。
すると、古富士ポイントから74km進んだところで神社に行き当たります。残念ながら神社名がわかりません、仮に時原不詳神社と呼ぶことにしました。
ここで、時原不詳神社(静岡県浜松市天竜区水窪町地頭方)の位置は(35.234659,137.937333)にあります。 神社名がわかりましたらぜひ教えてください。連絡先
注;
15kmほど行ったった場所で足形(静岡県富士宮市)の付近に神社(35.3260786,138.574042)がありますが、線から28mほど離れているので無視します(神社群中心の特性もない)。
縮尺レンジは100m(青色枠内のレンジ表示) |
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電子国土による作図 | 地理院地図による作図(ずれが大きい) |
地理院地図ではこれ以上縮尺を変えると神社マークが消えてしまうので50mレンジの図を拡大して電子国土と合わせている | |
図H58 古富士ポイントから石宝殿に線を引いたときの時原不詳神社(静岡県浜松市天竜区水窪町地頭方)付近の拡大図 |
注; 上記の作業した結果を図H46で示しますが電子国土では図に示したほぼ線上に時原不詳神社がありますが、地理院地図では45mもずれています。これは電子国土を地理院地図に変更したとき、地図の投影方法を変えてしまったことによります。この変更は、研究に取っては致命的な問題になっています。
以上の簡単な作業で多重点が見つかります。このままでは、「日本では神社の数が多いので何らかの神社に行き当たるのは当たり前だ」とした批判を受けるに違いありません。確かにその通りで、この批判はレイラインに対する批判と同じ意味を持ちます。ただし、もし時原不詳神社が神社群中心の位置にあればレイラインよりもその信頼性は桁違いに上がります。さらに、時原不詳神社-古富士ポイントの線分に対してピギーバックが成立していれば、さらに信頼性は桁違いに上がり、石宝殿が古富士ポイントを参照していたことが間違いないことを確率を持って証明できることになります。
2015.6.24 記
さて、先に簡単な方法で求めた多重点の時原不詳神社(静岡県浜松市天竜区水窪町地頭方)を評価してみます。まず、この点が神社群中心であるかどうかを調べます。ここで、時原不詳神社を中心としたHSCPの結線を図H59に示します。佐久間大井不詳神社は時原不詳神社のHSCPによる結線から派生した神社群中心です。これはすでに何度か書いているように、結線時に「HSCPの結線が二本以上到着する神社は必ず神社群中心になる」とした経験則です。図H47では、時原不詳神社から佐久間大井不詳神社(静岡県浜松市天竜区佐久間町大井)に桃色で示した直角線と、深緑色の直角線が二本入っていることがわかります。
神社密度の高い地域でのHSCPによる結線では、その神社が神社群中心であるかどうか、なかなかわからないことがあります。しかし、その神社から出たそれぞれの直角線が同一点に到着することがあれば、このような事象は偶然に起きる可能性は非常に低いので、その神社は神社群中心と断定しても良いでしょう。その点から見れば時原不詳神社は間違いなく神社群中心です。
ここで、時原不詳神社は廃村の地域にある小社で、それから派生した佐久間大井不詳神社も名前すら知られていない小社であることに疑問を持たれる人も多いでしょう。しかし、ここで驚くことがあります。佐久間不詳神社と時原不詳神社を結んだ線の延長線上には仙丈ヶ岳(長野県伊那市、3032.6m)があります。言い換えれば、時原不詳神社と佐久間大井不詳神社は仙丈ヶ岳に対する二重点であることがわかります。
後に詳しく説明する予定ですが、時原不詳神社と仙丈ヶ岳に引いた線分にはピギーバック配列があり、この一つに大御食神社(おおみけじんじゃ、長野県駒ヶ根市赤穂)があります。大御食神社は神代文字で書かれた古記録 「美しの杜社伝記」に書かれている神社です。この神社の社家である小町谷家は、神話の時代から続いている家柄で、現続する日本最古の家系であると言われているので、大御食神社の位置のの元となっている佐久間大井不詳神社と時原不詳神社は少なくともその年代から実在したことになります。これまで神社のはじまりは、長者ヶ平遺跡に関連する神社が最も古いと書いてきましたが、佐久間大井不詳神社と時原不詳神社はそれらと同じ時期にはじまったものと思われます。
時原不詳神社とそれから派生した佐久間大井不詳神社からは、さらに多くの神社群中心を派生し、階層的な神社配置になっています。こちらも後に詳しく説明する予定ですが、この配列は静岡県南西部の神社のすべてにわたるほど多くの神社の位置に関係していて、神社配置から見ても、とても重要な位置にあります。ただし、その神社のある位置が山間部にあり、現在では不便な場所にあることと、長い時間の経過と共に忘れてしまうような存在になっていると考えています。
図H59 神社群中心、時原不詳神社とそれから派生した神社群中心(佐久間大井不詳神社) |
次に、時原不詳神社が神社が群中心であることがわかったので、次は時原不詳神社-古富士ポイントの線分に果たしてピギーバック配列があるかどうかを試し、その結果を図H60に示します。
図H60 古富士ポイント-時原不詳神社間のピギーバック配列 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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古富士ポイント-時原不詳神社間、ピギーバック配列・頂点の位置とその内角(赤字は±0.2度以内の誤差に入った内角) 注;表の中には寺院も多く入っている、その内角の精度も高いことから神社が寺院に改宗された例が多いことを示している ピギーバックを作る三角形の辺の長さが100km以内で内角=補正内角となる。この内角は地図の歪の影響を全く受けない |
ここでも驚く91個ものピギーバック配列が成立しています。図ではその頂点の内角(辺の距離が100km以内なので補正内角も同じ)が90度±1度以内のものに絞っています。この中で誤差を±0.2度に絞っても20個ものピギーバック配列が成立しています。ここから見ても、先の簡単な方法で見つけた石宝殿と古富士ポイント間に引いた線の上にある時原不詳神社がそれに関係する多重点点であることがわかります。ここでも、石宝殿が古富士ポイントを意識して配置されていることを示しています。
なお、図にある穂見神社 (山梨県南アルプス市高尾498、表の17番)は甲斐における式内社として比定されている神社です。他の論社もありますが、間違いなくこの神社が第一の候補にあげられるでしょう。また、小嵐神社(長野県飯田市南信濃木沢、表の19番)は数多い小型の赤鳥居と奇怪な伝承で知られている神社です。どちらの神社もは神社群中心の特性も持っていて、この配置が偶然でないことを示しています。
以上に書いたように、時原不詳神社は石宝殿と古富士ポイント間に引いた線の真上にあり、しかも神社群中心の特性を持つ上に、時原不詳神社-古富士ポイントの線分に対して数多くのピギーバック配列を持ち、その頂点に相当する神社も神社群中心の特性を持つとした極めて特異の配列を持っていることがわかりました。ここから見ると、石宝殿と古富士ポイントは同じ思想で配置されていることが明確になりました。この事実と図H51から図H55を併せて考えると、石宝殿と益田石船、栗材を半裁した環状木柱列、敷石と一個の穴を持つ縄文遺跡は全く同じ思想を持って配列されていると言い切ることができます。しかも、この説は学問である確率から無理なく説明できました。ここから見ても、縄文時代には一般の原住民とは異なる極めて高度の知識を持った人達が居て、その指示した位置に遺跡を決めていたと考えざるを得ない状況になってきました。
2015.6.27記
石宝殿が古富士を参照していた証拠は図H40の①-②間に引いた古富士線と、それにピギーバック配列された⑤桜町遺跡が配列されている決定的証拠の上に、図H48の古富士線上にある時原不詳神社-古富士の線分に対する多数のピギーバック線を持つことで科学的に充分に説明できたはずです。
しかし、「神社間に線を引いて何になるか」「古代人が遠方の方向を知ることなどできるわけはない!!」などとこれまで本気で考えていた人は多勢です。ここまで確かな証拠をあげられても、やはり何か言いたいに違いありません。そうですね、実際は神社のことなど、何もわかっていなかったにもかかわらず、わかったつもりでいた人達は、未だに常識から抜けられないでいる可能性があります。そこで、図H48はわかったが、時原不詳神社から石宝殿に向かって線を引いているが、それは勝手に引いた線であって、石宝殿まで到達している証拠はないではないか-と疑う人もいるに違いありません。これは先の①-②の線とその線分に対するピギーバック配列で充分な証拠があり、その説明は不要なのですが、念のため、時原不詳神社から先に行く線が、確かに石宝殿に向かっている証拠を以下の手順で確かめてみました。
今度は先の方法と逆方向、石宝殿側から多重点がないかを試すことにします。その方法は
1. 石宝殿①から-古富士②に引いた線に沿って石宝殿側から見て行きます。
2.まず(34.7891655556,134.842437222)にある益氣神社は石宝殿の近くにあるにもかかわらず線の真上にないので外れ。
3. 次の(34.7914227778,134.851480556)、(34.7918355556,134.863496111)、(34.7995497222,134.916142778)も同じ理由で外れ。次の(34.8018461111,134.927310833)も外れです。特に古富士線よりもわずかでも上(北側)にずれた線はすべて外れとします。
3. 石宝殿から17kmほど進んだところの平田(兵庫県三木市平田386)で大歳神社(34.8086391667,134.977965833)に行き当たる(約30m南側にあるが、このずれはは歓迎できる)。
(すでに、何度も説明しているが、古富士ポイントから西側に引いた線は地殻変動の影響か-わずか北側にずれ、古富士ポイントから離れるほどずれは増大する)
4. 神社群中心であるかとうか、大歳神社から周辺の神社に線を引き、行きあたった神社から引いた直角線上に神社かあるか確認する。(HSCPの確認、後に詳細を説明)
5.石宝殿-大歳神社の線分に対してピギーバックが成立するかを確認する。(図H49を参照)
以上の作業で大歳神社(兵庫県三木市平田386)が石宝殿-古富士線の多重点の一つであることが確認でき、石宝殿が確かに古富士ポイントを参照している証拠をここでも確認することができました。図K61に示すように、大歳神社-石宝殿に引いた線分に対して四つものピギーバック配列が成立しています。石宝殿-大歳神社に引いた線分は図H41の①-②の線分の上に重なっているいるので、この図H50は石宝殿が古富士ポイントを参照している確かな証拠となります。
下記の六ポイントはすべて神社群中心の特性を持つ
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図H61 石宝殿-大歳神社(三木市)の線分に対する四つのピギーバック配列 |
図H48の四つのピギーバック配列の頂点のうち、金剛寺と白旗観音寺の二つは神社ではなく、寺院になっています。しかし、それらのポイントが神社群中心の特性をもつだけけでなく、正確なピギーバック配列の中にあることから、この二つの寺院のあった場所には間違いなく神社があったことになります。したがって、金剛寺と白旗観音寺はかつては神社であったものが、改宗して神社になったか、または神社が廃絶された跡に、その場所を利用して寺院が建てられたことになります。図H49でも見られるように、この地域はそのようにかつて神社のあった位置に寺院がある例が多いようです。理由はわかりませんが、和歌山県の西部に行くとさらにこの傾向が強くなります。
2015.7.1記
さて、先の3.の作業で求めた大歳神社(34.8086391667,134.977965833)が図H610によって間違いなく多重点であることがわかりました。この事実と、先にも説明したように、図H49の古富士線上にある時原不詳神社-古富士の線分に対する多数のピギーバック線を持つことで確率から見て石宝殿が古富士ポイントを参照していることは絶対に間違いないと言い切ることができます。
しかし、この事実を素直に認めようとしない人達が多いに違いありません。掲示板に書いたように今年になって洋泉社から発刊された「神社に秘められた日本史の謎 監修 荒谷尚紀」にも、私がこれまで発見した神社の配列に関わる事実は一切触れていません。このホームページを立ち上げたのは2011年8月25日ですでに4年近く経過しているにもかかわらず、完全に無視されているのです。これは、科学的に実証されている確かな事実を権威によって否定しているに等しい行為です。
とは言うものの、文系の人達は確率などを信じない人も多く、それが原因かもしれません。先の書籍が名誉毀損に当たると実証するには、もう少し丁寧な説明が必要かも知れません。これまで誰もその謎を解いていなかった石の宝殿が3000年前の位置にある古富士ポイントを指し、さらに縄文遺跡である長者ヶ平遺跡 を参照している事実を証明するだけで、先の書籍にある多くの間違いを科学的に指摘できると考えています。
確率など信じないと言う文系の人は図H60を見て「大歳神社は石宝殿から17kmしかないではないか、このような短い距離で360km余りも離れている古富士ポイントに続いているなどと言っても信じることができない。」などの疑問にも答える必要があると考えました。
そこで、図H47にある大歳神社から古富士ポイントまで線を引きます。そしてその線上に神社がないかを調べます。
すると、図H50に示すように9個もの神社群中心が線上にあります。(同じ線上に式内社小倉神社があり、神社群中心ですが、検討が終わっていないので、図H60では除いてあります)。ここで注意してほしいことは、線上にある神社(寺院を含む)は単なる点ではなく、神社群中心の特性を持っていることです。これは、信頼性がが疑問とされているレイラインとは異なり、桁違いに信頼性の高いことを意味しています。ここでは、古富士ポイント-石宝殿と書いていますが図H62で②から⑨の神社群中心の乗っている線は正確に言うと、①-⑨の線分になります。この理由は地殻変動-または地図の原理的歪-でわずかのずれがあります。このずれは先の3.に書いたように約30mほど南にずれています、(このずれは古富士ポイントから石宝殿の距離と比較すると8✕10-5
注;神社群中心①から⑩は線分①-⑪の真上にあります、誤差は建物の位置の大きさ以内にすべてが収まっていて事実上誤差はないに等しい範囲にあります。その中で鵜川原神社だけが神社の形状が細長く特異な形状をしていて、その位置をどこにするか困難なほどです。経験上、神社の基準の位置は正面から見て中心最奥の位置が最も精度が高い位置にある経験則を使うとその誤差は10mほどに収まります。
②から⑩の位置のずれは①-⑩に引いた線に対して1/30000以下(全長に対して) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
図H62 石宝殿-古富士ポイントを結んだ線上にある神社群中心(ポント間すべての線分にピギーバック配列を持つ) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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2015.7.12記
図K62に古富士ポイントから石宝殿までの間に9個もの神社群中心があることを示しました。先にも述べたように式内社小倉神社(京都府乙訓郡大山崎町)が同一線上ぴったりの位置にあり、これを加えるとその数は10個になります、このような精度で直列につながる確率は非常に低くなります。例えば、⑪石宝殿-⑤大谷不祥神社-①古富士ポイントの三点が1/30000の精度で直列になる大雑把な確率は0.003%になります。これは単なる点の場合の確率であり、この三点が神社群中心であるとした特異性を考慮すると、その確率は二桁近く下がります。この三点の直列になる確率から見ても、その配列が偶然ではなく、計画的に配置されていると考えざる得ません。まして、図H62のように他の多くの神社群中心もその線上にあるような事象は、絶対に偶然では起きないと断定して良いでしょう。
ここまで説明すれば、もう図H62に示した配列が偶然では決して起きることはなく、「日本は神社が多いので線を引けば何らかの神社に行き当たる」とした理由でこれを偶然であるとして否定することもできないことがわかるはずです。しかし、長い間歴史を研究されてきた専門家はそんなことはあり得ない、これまで研究してきた歴史観をこんなことで崩すことはできないと意地を張り、未だに「月には兎がいる」と主張しているような人もたくさん居るに違いありません。
そこで、念のためさらに説明を続けます。
図H63は図H60に引き続いて②時原不詳神社-③延命寺の線分に対するピギーバック配列を示します。ピギーバック配列の頂点の内角を±1度以内のものを図示しました。この配列の総数は85個にもなります。内角の直角からの誤差を±0.2度に絞っても26個もの配列があります。「月に兎」状態の人は未だに「日本には神社が多いからそのような線は簡単に引ける」と考えているに違いありません。もしそうなら、ご自分でそのような二点を見つけてください。ランダムに神社を選び、多くのピギーバックの成立する点をみつけてください。そのような試行錯誤による方法では一生かかってもそのような点を見つけることはできないでしょう。
図H63 線分②時原不詳神社-③延命寺に対するピギーバック配列(内角誤差±度以下) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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内角の赤線は±0.2度以内の誤差範囲に収まる角度 |
2015.7.15記
このページは書きかけです。
注;
角度の計算は、国土地理院「距離と方位角の計算」で計算しています。
計算式はこのサイトからリンクしています。(公式に認められている計算式です)。
「補正内角」は、この式で、屈曲点から対象ポイントまでの測地線長が100kmを超える場合、屈曲点から約100km地点における線上のポイントを取り、その値を同じ計算式に入れた値です。(楕円体モデルはGRS80)
補正内角の表示のない単に「内角」としている角度は、屈曲点から100kmの位置ではなく、実際の対象点の位置で計算したものです。いずれ、これらも「補正内角」に訂正する予定です。
線を引いている地図は国土地理院の「電子国土」です、新しい「地理院地図」が公開され、2014年の3月限りで「電子国土」は停止になる予定でした。 しかし、この研究には不可欠な地図なので、特別な計らいで延期させていただきました。こんな理由もあり、事情を良く知らない人は、この地図をうまく使うことが出来ない可能性があります。
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反論は大歓迎です。HSCPを理論的に否定された最初の方には500万円の礼金を用意してあります。
専門家、団体からでもかまいません。
2014.5.2礼金を10倍に変更
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